漁火-序章-

-序章-

 

 『闇』。
 いや、正確には真っ暗闇と言うわけではない。短い蝋燭(ろうそく)の小さな火がふたつ、ゆらゆらと揺らぎながらあたりをわずかに照らしていた。それなのに、この空間はまさに闇と形容すべき雰囲気に包まれていた。あまりにも静寂だからだろうか?それとも…
 蝋燭の火が、中央に男の姿をぼんやりと浮かび上がらせる。見たところ男は僧侶のようだ。黒染めの質素な僧衣を身にまとった男は、そのがっしりとした体躯で床の上に座禅を組みながら微動だにしない。よもや死んでいるのでは、と思わせかねないその姿に相当の修練を積んだ者であることをうかがわせた。
 ふと…  周囲が明るくなる。まるで揺らぐ蝋燭の火が突然ふくれあがったような、そんな光に包まれた。目を閉じて座禅に集中しているこの男は、そのことに気付いただろうか。

 「おまえの求めるものは、一体なんなのだ…」

 唐突に、重く響き渡るような声がした。いや本当に声がしたのだろうか。

 「わかっているのか…おまえのしていることは」

 ほんのわずかの『間』が、ずいぶん長く感じられる。

 「罪悪だ」

 明るくなった本堂には、たいして大きくもない粗末な仏像と、その祭壇がある。男はその仏像に向かって座禅を組んでいたが、今の声はあきらかにその男のものではない。
 男の左右に鬼火のような炎があがる。天井を焦がしかねない炎であるはずなのに、音はまったくしないのが無気味だ。その紅い炎に照らし出されたもの。それは僧衣の男の背後に、身の丈10尺はあろうかという巨人の存在だった。
 巨人は鎧を身にまとった『毘沙門天』である。
 男の太いまゆがピクリと動いた。
 毘沙門天は持っていた剣を引き抜くと、男の肩口に突き付ける。

 「これ以上続けるなら、おまえを消さなくてはならぬ」

 その言葉に、男はついに目をひらいた。背後に迫る『神』の姿に恐怖した目ではない。強い意志を持った『男』の目だ。

 「このままやめるわけにはいかん。おれの命は最後までおれのものだ。誰にも邪魔はさせん」

 毘沙門天に勝るとも劣らない太くドスの利いた声がひびく。

 「お前の求めるものは、一体なんなのだ…」

 毘沙門天はふたたび同じ言葉をくりかえす。
 男は、ニヤリと口元だけで笑ってみせた。

 ブツッ

 ひもが切れるような音がしただけで、男の右腕がちぎれ飛んだ。幻覚ではない。少し遅れて、激しい痛みが襲ってくる。さすがの男も、残った左腕で右肩をおさえ、背中をかがめて呻いた。普通の人間なら、叫び声をあげて床をころげまわってもおかしくはない激痛に男は堪えていた。

 「おれはうれしいよ。貴様等のような『天』からも危険視される存在とはな。だがな、おれは…」

 男は歯をギリギリと食いしばり、そして吼えた。

 「もう貴様等の法には従わん!おれ自身のやりかたで奴等を裁いてやる」

 男と毘沙門天が向き合う。毘沙門天は右手に剣を持ち、いつでも男の息の根を止める勢いでいるのにもかかわらず、男の度胸と精神力はそれをかるく凌いでいた。
 まさか武神の威厳に対抗できる人間がいるのだろうか? そんな勢いを持つ男の存在に、毘沙門天はどうやら興味を示したようだ。しかし、荒ぶる武神の行為は容赦ない。右手の剣をムチのようにしならせ、男に叩き付けた。
 するどい刃の部分ではなかったとはいえ、巨大な剣をすさまじい勢いで叩き付けられた男は、たまらず吹き飛び木製の仏像へ打ちつけられる。斬られた右腕の傷口から吹き出した鮮血が、弧を描いて飛び散った。

 「神仏をも敵に回して、悪鬼どもに勝つつもりなのか。現世の人間ふぜいが」

 毘沙門天がそう問いかけるところを見ると、まだ息の根を止めたつもりではないらしい。案の定、血に染まった仏像の足下から、むくりと男が起き上がる。

 「今まで色々教えてもらった事は感謝してるさ。だがもう誰の助けもいらねぇ」

 口から血を吐きながらもそう言い返す男はすさまじい気迫を放っている。

 「思い上がるな!」

 毘沙門天の攻撃は続いた。今度は剣ではない。炎だった。
 炎球が男めがけて飛んできた。それを、なんと男は左手で受け止める。伊達に武神と喧嘩しているわけではないということか。

 「やけに親切じゃねぇか」

 男は毘沙門天が投げ付けた炎を握りつぶして、憎まれ口を叩く。

 「殺るならひと思いに殺ればいいだろうによ」

 「だまれ!最早おまえを僧とは認めぬ」

 毘沙門天が叫ぶと、男の僧衣が炎に包まれた。またたくまにそれは燃え尽き、灰となって床に落ちた。残ったのは褌一本の男の身体ひとつだ。
 男はさすがに疲れ切ったのか、大きく肩で息をしている。

 「命だけは残しておいてやる。だが、覚えておくがいい。これからおまえの身にふりかかる困難こそ、神仏が与えた罰だということをな」

 そう言い残し、毘沙門天は現れたときとおなじく唐突に姿を消した。  男は意識を取り戻したとき、床に褌ひとつでうつぶせに倒れていた。
 斬られたはずの右腕も、飛び散ったはずの血飛沫も、まるで今までのことが幻であったかのように元通りだった。しかし、着ていた僧衣は灰すらも見当たらず、裸同然の男はただ、ひどい疲労感に襲われていた。
 立ち上がるだけの力もなく、男はうつぶせのまま、つぶやいた。

 「神罰だと?たとえ神だろうと、悪魔だろうと、おれの邪魔をする奴は…」

 本堂を照らしていた小さな蝋燭が、ついに燃え尽きて消えた。本堂は今度こそ本当の『闇』に包まれる。

 「…ころす…」

 そして男はまた気を失った。
 この男のやろうとしていることは、少なくとも正義ではなかった。あまりにも乱暴で、反抗的な改革だった。しかし、何かがこの男を強く支えていた。それが何なのかは、今はわからない。
 神仏が与えた罰と、男の本当の目的を知るためには、30年後…
 この男の息子の世代に刻を進めなければならない。

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