漁火-第一章-第一話
-第一章-
第一話
「またオヤジの夢か…」
まだ眠い目をこすって、吉田ゴンゾウは目を覚ました。
「ようやくお目覚めですか」
静かだがハッキリとした口調で誰かが話し掛ける。その言葉に、ゴンゾウは思わずかたくなった。ここは自宅の布団の上じゃない。上司の若松とともに、取引先との交渉へと向かう自動車の中だ。
「ス、スイマセン、部長」
ゴンゾウがあわてて頭をかきながら謝る。
「もうそろそろ先方へ着くころです。曲がったネクタイ、なおしておきなさい」
この男、特殊営業部長の若松多聞はそう言ってまた前を向いた。どこにでもいる中年サラリーマン然とした男。黒ブチのメガネをかけた丸顔にビール腹、かなり後退した頭髪…しかし容姿とは裏腹に、おそろしくやり手の策略家だという噂だ。 そして若松部長のさらなる秘密をゴンゾウは身をもって知っていた。真性のサディストなのである。部長に目をかけられたときから、自分の運命が変わったとゴンゾウは思っていた。この中堅コンピュータ会社に就職したのも、若松部長と知り合ったからなのだ。 吉田ゴンゾウは学生時代にラグビーでならしたごつい身体を、今はワイシャツにネクタイで包んでいる。いかにも窮屈そうに着ていて、首の第1ボタンは留めたことがない。だが、ゴンゾウの身体はラグビーだけで作られたものではなかった。 そんなゴンゾウでも、若松部長は恐ろしい。
「これから大事な相手と交渉にゆくというのに、車の中で居眠りですか。昨日はいくぶん飲み過ぎましたね?」
若松が前を向いたままゴンゾウに話しかける。
「ですが私は君のそういうところを気に入っているんですよ」
そう言って笑う若松の姿には、陰湿さがない。皮肉を言っているようにも見えなかった。
「ハァ…」
こうなるとゴンゾウは蛇に睨まれたカエルみたいになってしまう。もう、さっきの居眠り中に見た夢のことなどは忘れてしまった。 今は、西暦1982年。もちろん、現実世界とは違う。ここは過ぎ去った時間の中に生まれたパラレルワールド。1958年に起こった東京沖大地震によって本州は北と西に分断されてしまう。それまでの関東平野はズタズタになり、大小さまざまな小島が浮かぶ『大東京湾』となってしまったのだ。 その中で最も大きな島全体を巨大な都市として再建したのが『東京島』。だがここは政府が厳しい入出規制を敷いているために、正当な理由のあるごくわずかな者たちだけが出入りできる特殊な街であった。 ゴンゾウがいる場所は、『北本州』と呼ばれる旧本州の北東部分。日本の首都機能そのものは『東京島』が果たしているが、北本州、西本州それぞれにまた中枢都市がある。北本州では仙台、西本州では大阪がそれにあたる。公には物的生産能力を持たない情報都市である『東京島』に対し、農業・漁業・工業などほとんどの生産および管理をおこなうための都市としての位置付けである。 北本州と西本州との行き来は、自由に行うことができた。 こんな背景を持つ世界であるから、当然我々の知る80年代とは違ったものであることを、覚えておいてほしい。
「着きました」
運転手が、事務的にそう伝える。
「お疲れさまでした。君はここで待っていてください。ですが、危険を感じたら速やかに離れること。必要なときは連絡します」
若松がそう言うと、運転手は
「わかりました」
と素っ気無い返事をした。このような指示を受けるのも、今回が初めてというわけではないらしい。
「行きますよ」
若松に『愛』と『暴力』で叩き込まれたマナーによって、ゴンゾウは車のドアをあけて先に降り、ドアの横で若松が降りてくるのを待った。そして、愛用の拳銃『グロック17』のチャンバーに弾薬を送り込むと、無造作に胸のホルスターへ戻し、バサリと背広を羽織る。 これが普通の取引先との交渉へ赴く者のすることとは思えない。 そう。彼等は『特殊営業部』なのだ。