漁火-第一章-第二話
-第一章-
第二話
ふたりがやってきたのは、海岸に程近いホテルだった。海岸、と言っても26年前までは陸地の真中であった場所だ。ここは東京沖大地震で生まれた「大東京湾」に面した場所なのだ。
このあたりはまだ災害の爪痕が痛々しく残っている。着いたホテルも、観光客を目当てにしたものではなく、質素な建物だ。およそ商談の場としては相応しくないもののように思える。
しかし、相手が此処を指定してきた以上、出向かなくてはならないのは「特殊営業部」でなくとも同じ事だろう。
ふたりは3階にあるロビーに案内された。意外とサービスが良いが、他にはだれも客らしい人間が見当たらないのが気にかかる。
「お待ちしておりました」
ソファに座っていた人物が立ち上がって一例する。
その背後には、男が3人立っていた。お世辞にもサラリーマンとは思えないほどラフな服装、派手な髪型、まるでビジュアル系のチンピラだ。
「遅れて申し訳ありません、アルバトロス社の若松です」
「高城コーポレーションの島津と申します」
名刺を差し出したその人物は、女性であった。しかし、背後の3人とは対照的に、この女性には派手さがない。
この女性を確かめるような視線で一瞥した若松部長の目が、眼鏡の奥で細くなる。商談の相手として待っていたのがこのような男女たちであったとしても、まったく動揺した様子がなかった。
「早速ですが商品を見せていただけますか」
島津が言う。チンピラのような部下たちを連れているにしては、きちんとした言葉遣いだ。
若松部長はテーブルの上に小振りのアタッシュケースを置いて、ソファにすわる。ゴンゾウはその後ろで立ったまま、島津の後ろにいる3人をじろりとにらんだ。
「『東京島』で出回っているドラッグチップ…」
ケースの中に収められていた深緑色のメモリーチップを見て、島津が息を飲んだ。ドラッグチップとは、専用のプレイヤーを用いて再生すれば、人体に対して麻薬と同等の効果を発揮するコンピュータソフトが収められているメモリーだ。当然その使用・販売は政府によって厳しく制限されているため手に入れるには闇のルートを頼るしかない。
しかも今目の前にあるそれは、あらゆるメディアの中心『東京島』で開発された人気のドラッグチップ『ファンタズムX』なのだ。『東京島』の人間でなければ手に入れることはできないと言われている。
「これを手に入れるのは苦労しましたよ」
若松はもったいぶるように言い、ケースのふたを閉めた。
「もちろんこれはレベル2メモリーですからコピーが可能です。ご存知のとおりレベル3以降はオートプロテクトがかかりますし、再生の回数も1度きり」
「まさか偽物じゃないわよね?」
島津がそう疑うのも無理はないほど、このメモリーチップは貴重なのだ。
「どうぞお試しください…、と言いたいところですが、これを使ったらもう取引にはならないでしょうな」
若松はいたずらっぽく笑う。
「…」
その言葉に、島津と後ろの3人は目の色を変えた。
噂の新型ドラッグチップは、経験者にはたまらない魅力をもっている。
そのとき、ゴンゾウが若松にささやいた。
「外の様子が変っス」
ロビーに面した窓ガラスの向こうから、かすかにヘリの音がする。
『消音ヘリ?しかしその型は警察にしか配備されていないはず…、すると』
若松はしばし考え込んだ。そして。
「あなた方、まさか我々2人を捕えるためにわざわざ」
「するどいわね。そうよ」
島津はあっさりと認めてみせる。ここまできてしらを切る必要はないと見たようだ。
島津と若松のやりとりを、ゴンゾウはだまって聞いていた。もちろん、身の危険が迫っていることは肌で感じていたから、いつでも動けるように身構えている。
「では長居は無用ですな…。我々はこれで失礼させていただきますよ」
若松もソファから腰を浮かす。こんな状況だというのに、おそろしいほど落ち着き払った態度だ。その態度が気に入らなかったのか、島津が叫んだ。
「すんなり帰れるとでも思っているの!?」
島津は唯一女性らしさを感じさせる胸元から拳銃を抜く。島津はそれを見て、
「ゴンゾウ君」
冷淡な口調でつぶやくように言う。
ゴンゾウはその言葉を待っていたのか、何かにはじかれるように飛び出した。そして上司をかばうように立ちふさがったかと思う間もなく、島津を張り倒す。こんなときのゴンゾウは女性に対しても鬼のように手加減なしだ。
背後の3人のチンピラたちもあわててナイフを抜く。しかしその動作はどこかぎこちない。
『なんでぇ、素人かよ』
ゴンゾウは頭の中で悪態をついた。ゴンゾウにとって、もう素人の振り回すナイフなど怖くはない。切りかかってきたひとりをサッと身をかがめて避けると、背中で持ち上げるようにして抱えあげ、床に投げ捨てた。
投げられた男は、血を吐いて動かなくなった。どうやら肋骨を折られたらしい。
「怪我したくなかったら大人しくしてろ」
次の相手に対するためにすばやく体勢を戻したゴンゾウが声を荒げた。その言葉に耳も貸さず、いや、半分ヤケになって襲い掛かってきた残りのふたりを、10秒とかからず血まみれで床にころがしたゴンゾウは鼻でひとつ息をし、上司の若松を振り返った。
「警察が来てるのよ…もう囲まれているわ…」
ゴンゾウに張り倒された島津が苦しそうに喋っている。
「我々を甘く見ちゃあいけません」
若松は眼鏡の奥の目をさらに細くした。いつのまにか、ヘリの音が止んでいた。もう岸壁に打ちつける波の音しか聞こえない。まるで嵐の前の静けさといったところか…。
だが、ゴンゾウはこれから起こる出来事にたまらなく興奮していた。
『さぁ、久しぶりに大暴れできるぞ。警察だろうが、機動隊だろうが、なんでも来い!』
階段をかけ上がってくる足音が聞こえる。ふたりはここから無事に逃げおおせることができるのだろうか?